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快く? 渋々? 

今朝の新潟日報に、南魚沼の雲洞庵に飾られている額についての記事が載っていました。
黄金の縁に囲まれた青い背景の上に、これまた金の文字で大きく「祈祷」と書かれています。
この額は、承久の乱(1221年)で敗れて佐渡に流された順徳天皇の手によるとされています。
もともと佐渡の長安寺に飾ってあったものを、上杉景勝が雲洞庵に飾りたいと持ち帰ったとか。
昨年雲洞庵に行きましたが、そんなことはどこにも書いてなかった気がします。
この額、雲洞庵では「長安寺より快く奉納された」としていますが、
一方の長安寺は、「寺が進んで差し出したものではないと思う」としていました。

佐渡は、鎌倉時代に相模の本間氏が佐渡守護代になって以来、
戦国末期まで本間一族が勢力を張ってきた土地です。
一族が割拠して争いが絶えない中、豊臣秀吉の命で上杉景勝が佐渡平定に乗り出します。
この辺の事情はもっと複雑ですが、とりあえず関係ないので省略。
上杉氏の佐渡攻略(1589年)は成功し、上杉方に味方した本間家は越後に領地を移され、
敗れた本間家は滅びた者もあれば、能登などへ逃れた者もあるといいます。
その後佐渡は直江兼続が治め、上田衆・与板衆が代官として入ります。

雲洞庵の「祈祷」の額はこのときに持ち帰ったものということになりますが、
はたして「快く」持って帰らせてもらったのか、「渋々」差し出されたものなのか。
景勝が幼い頃学んだ縁を持つ雲洞庵と、侵攻された土地に建つ長安寺とでは、
その言い分が逆になるのも当然でしょうね。
敗れた本間家の中に、生き残ってそのまま佐渡に隠れ住んだ人がいるようで、
その一家は明治になっても景勝を呪う儀式をしていたと、とあるサイトで読みました。
上杉vs本間の部分を詳しく書いてあるものを読んだことがないですし、
佐渡の歴史については知識が皆無なので、ここで何か意見を展開することはできませんが、
何かと「義」ばかり強調される上杉家であっても、
「義」だけでは乱世を生き抜けないというのもまた事実であるのでしょう。

さて、実はここからが本題だったりします。(苦笑
私は随分前から、この佐渡の本間氏と酒田の本間さまは関係がないのだろうかと思っていました。
そう、あの「本間さまには及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」の本間さまです。
今は便利な情報溢れるインターネットがございます。
この機会にちょっとググってみたところ、やっぱり関係はあるようですがはっきりしません。
「ようですが」、というのは、自分が見る限り3つの説があり、
そのどれとも判別できる資料を確認できていないから。

説1 佐渡に入った本間氏のある一族が南北朝時代に出羽へ渡り、その後大宝寺氏に仕えた
説2 上杉景勝の佐渡征伐で越後へ移された本間家のある一族が、出羽へ移り住んだ
説3 上杉景勝の佐渡征伐で敗れた本間家の者が、出羽へ落ち延びた


酒田の本間さまの起源を調べてみると、
初代は「新潟屋」とか「越後屋」という屋号で商売を始めたとあります。
とすると、本間さまが越後からやってきたことは間違いないのでしょう。
しかしいつ? どのようにして?
どなたか詳しいことをご存知でしたら、ぜひ教えてください。
戦国期の佐渡は史料がほとんどないようですが、内紛ばかりだった本間家ですとか、
なんだか新しい興味がわいてきました~。
[ 2009/02/06 22:27 ] 上杉氏(史料・資料) | TB(0) | CM(4)
結構越後から出羽の国に流れてきているんですよね~^^;;
オノデラーズの所にも、かっきーと同族の方がいらっしゃいますし・・・
その影響で、平鹿雄勝地域に「柿崎さん」が多くいらっしゃいます(笑)
酒田に行っても、本間さんの「すばらしい」事しか教えてくれなさそうですし
もしかして、全ての説が当てはまるかもしれませんね~
大宝寺氏に仕えた本間さんがいて、景勝君に討伐された後、その縁を頼って庄内へ移り住んだ(落ち延びた人も含む)・・・・と

で、「額」ですが・・・
上杉軍は「占領軍」でしたから、そういう相手に「快く」奉納はしなかったでしょうね~^^;;

[ 2009/02/07 11:13 ] [ 編集 ]
> もしかして、全ての説が当てはまるかもしれませんね~
そういう可能性もありますよね。
どの説にもそれなりに出典が書かれていたのでなおさら判別不可能だったんですが、
酒田の本間美術館に行った方のブログを拝見したところ、
本間美術館でも酒田以前の話はわからなかったようです。
酒田に移ってきた本間家は分家なのかもしれないですね。
そのために決定的な史料がなくて、諸説が出ているのかも。

額は……私も「渋々」だと思います。(苦笑
[ 2009/02/07 19:33 ] [ 編集 ]
酒田本間家に縁のお家!?
…という庄内藩繋がりで喰いついたものの…すみません、
どういう繋がりがあるのかまではとんと存じ上げません(汗)。

幕末鶴岡&酒田を調べていく過程で、
もし佐渡本間家に関する情報が出てきましたら
またお知らせしたいと思います(←すげーアバウト…汗)。
[ 2009/02/09 13:01 ] [ 編集 ]
コメントありがとうございます。
いつかお会いしたときにお聞きしようと思ってました!
佐渡市史や酒田市史を見ても、はっきりしないのかもしれません。
でも最初は鶴岡に入っているらしいので、
もし有益な情報やら史料にめぐり合われましたら、ぜひ教えてくださいまし♪
[ 2009/02/10 00:30 ] [ 編集 ]
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