関ヶ原論文……じゃなくて講談CD?

【徳川家康と上杉景勝が姻戚関係を約していた……】

木暮兼人さん経由で興味深い情報をいただいたので、早速図書館へ行ってきました。
出典は「日本歴史」707号(2007年4月)に掲載されている、
光成準治氏の「関ヶ原前夜における権力闘争~毛利輝元の行動と思惑~」という論文です。
論文の趣旨は、西軍の盟主でありながら、合戦には積極的でなかった毛利輝元は、
これまで「担がれた被害者」「凡将」的な見方をされてきましたが、
実は石田三成を初めとする奉行衆、そして上杉家と連携を図ることにより、
むしろ積極的に反徳川の計画を練っていた……というものでした。
この論文を考察できるほどの知識も何も持ち合わせていないのですが、

1.加藤清正、福島正則他の七武将に襲撃された石田三成は、
  言われているように家康の屋敷へ逃げ込んだわけではなく、伏見城にいたという説
2.毛利輝元が大坂城に入りながら合戦に積極的に参戦しなかったのは、家康と対決するよりも、
  「西は輝元に任せる」という秀吉の遺志に基づいた自己権益拡大を狙ったものとする説

この2つは非常に興味深いと思いました。

さて表題の件ですけれども。
慶長四年(1599年)、七武将に襲撃された石田三成が伏見城に入った後、
毛利輝元が毛利元康(輝元叔父)に宛てた書状に、

昨日内府・景勝縁辺之使互ニ増右案内者にて調候

と、あります。
私の解釈が間違っていなければ、石田三成が襲撃された頃、
家康と景勝は、互いに増田長盛を介して、婚姻の話を進めていたということになります。
当時はまだ子供のいなかった景勝さまが、どういう縁組を考えていたのか分かりませんが、
関ヶ原の前年に、バリバリの反徳川派だったはずの増田長盛が、
徳川と上杉の婚姻を仲介していたとなると、これはいったいどういうことなのでしょうか。
さらに毛利輝元は同じ書状の中で、
「景勝は公には上様に従うなんて言ってるけれど、本当のところはどうか分かったもんじゃない」
とまで言っているのですが、となると、
この当時の上杉家は家康に歩み寄ることを考えていたのでしょうか?
増田長盛は家康に対しても保身を図っていたようなので、この3人の関係が益々気になります。
論文は毛利輝元の行動を論じているので、この件は全くスルーされているのですが、
どこかにその辺りのことを詳しく書いたものはないでしょうか。
関ヶ原関連にはまだ全く手をつけていない私なので、考えようにも考えられない……。

関ヶ原といえば、西軍特集って感じだったので購入しちゃいました。


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寄稿してるのがみんな作家さんなので、どれもこれも小説風味なのは仕方ない……
と思ってページをめくっていたら、すごいのが出てきた。

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ちょっとこれ、もう聞く気マンマンなんですけど。(爆
だって、幸村に石田彰さん、石田彰さんですよ!
ワタクシ的にはイメージドンピシャですわ。
サンプルヴォイス探したら、これがまた面白くて笑っちゃいました。(サンプルはここ
シリーズだから、これからいろんな人が登場するんでしょうね。
ちょっと楽しみじゃないですか~。
あ、景勝さまのはきっと発売されないです。無口だから。(苦笑

6 Comments

木暮兼人  

これはっ(笑)

思わず引き寄せられてしまいました!
石田さんだ!石田さんだ!
アスランだ、桂小太郎だ!!

しかし・・・えらく色っぽい真田幸村さんですが。
一人語りだし(ナルシーな雰囲気になりそう・・・爆笑)

関が原についてはもう少し調べてコメントいたします・・・
声優さんに即効反応してしまった自分が怖い(笑)

2008/04/17 (Thu) 11:07 | REPLY |   

びびんば  

あ・・・・

私、景勝君の本と一緒に歴街を買ったのに、まだじっくり読んでいない・・・・^^;;;;

日歴は、学生時代に(専攻とは関係ないのに)面白い論文を見つけたら、コピーをしていました(読むまでに至っていない論文がいっぱい・・・@爆)
ついつい懐かしく思ってしまいました^^
その論文、面白そうです^^
県立図書館にも置いてあるから、私も読んで来ようかしら~^^
他に面白そうな論文を見つけられたら、是非ご教授下さいm(_ _)m

家康は、他の五大老に対していろいろと工作していたようですが(宇喜多家などは、大変なことに・・・)
上杉家は、うまく行かなさそうだから(←史料なく語っています@爆)、
姻戚を結ぼうとしていたというのは、何となく納得です・・・・
「本当のところはわかったもんじゃない」って思われるくらい、怪しかったのか、それとも考えがつかみきれないくらい無口無表情だったのか・・・・(笑)

ところで、景勝君ことを「会津中納言」と表記せずに、「景勝」って表記しているんですね~

2008/04/17 (Thu) 20:16 | REPLY |   

カタリーナ  

■木暮兼人さん

>ナルシーな雰囲気になりそう・・・
これ、激しく同意いたします!
でも幸村だから許せるかな?(苦笑
私も企画そのものより、幸村に石田さんというほうに反応してしまいました。
今後の組み合わせ(?)が気になりますね。
関ヶ原、ぜひいろいろ教えてくださいませ!

2008/04/17 (Thu) 22:19 | EDIT | REPLY |   

カタリーナ  

■びびんばさん

>それとも考えがつかみきれないくらい無口無表情
ちょっと、これ爆笑ですよ。
そうか、景勝さまならそうかもしれない。(笑
家康がいろいろ仕掛けてくるのは分かるんですけれど、
それに景勝さまが応じたというところが腑に落ちませんで……。
「昨日、調」だから、縁組が決定したんだろうと思うんですが、
それが結局破談になったということになりますよね。
うーむ、新たな展開に興味津々でございます。
因みに同論文で引用されているほかの方の書状では、
景勝さまが未だ「長尾殿」と記されています。
長尾⇒上杉が西国にはいきわたっていなかったのか、あるいは皮肉?
この頃は皆さん名前を略して記されていますが、
会津中納言だと会中とか書かれるんでしょうか?
それってイマイチ似合わないな~。

2008/04/17 (Thu) 22:39 | EDIT | REPLY |   

びびんば  

愛忠

あ、変換ミス!(爆)
会中と書かれると、「会津中学校」みたいですね~(笑)
越後中納言時代だったら「越中」・・・・あれ?富山県になっちゃいましたね~^^;;;;

しかし、長尾はないですよね~長尾は!!
まさか、景勝君、西国人に嫌われていたとか・・・・(汗)
西国人の気質に合わなかったのでしょうか?@景勝君

2008/04/18 (Fri) 23:05 | REPLY |   

カタリーナ  

■びびんばさん

愛忠は、ある意味正しい気も。(爆
会中……でなければ、上弾とか?
輝元以外の書状を読んでみたいところですね。

長尾はさすがにねー、上杉になって一体何年経ってるんだって話ですよね。
しかも五大老だっていうのにね。
やはり……嫌われていたのでしょうか?(汗

2008/04/18 (Fri) 23:32 | EDIT | REPLY |   

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