「十二国記」 ついに新作!!!

主上ーーーーーーー!!!
お待ち申し上げておりました。(平伏



6年半という月日を経て、ついに小野不由美氏「十二国記」の新作を読むことが叶いました。
タイトルは「丕緒(ひしょ)の鳥」
昨日発売の文芸誌「yomyom(ヨムヨム)」6号(新潮社)に掲載されています。

yomyom 原稿用紙換算で90枚という短編ですが、
 6年もの間ずっと待ってた人にとっては量なんか問題じゃない。
 とにかく、とにかく新作が読めるということだけでも、
 砂漠にオアシスを見つけたかの如くです。
 情報が流れて以来、出版社には「本当に新作なのか?」と、
 多数の問い合わせが寄せられ、予約も殺到したため、
 通常より1万部上乗せでの発行となったとのこと。
 私も予約しに行きましたが、店員さんの応対で、
 「私の前に何人か予約したな」とわかりました。(苦笑
 実際今日受け取りに行ってみると(田舎のため1日遅れ)、
平積みの量も半端じゃなかったですが、取り置き分も棚にいっぱいでした。(笑
みんな、本当に待ってたんですよね……。

さて、感想を綴ろうにも、「十二国記」の場合、ネタバレせずに書けないんですよね。
だって、「どこの国の、いつの時代の話か!?」というのが、最大のネタバレですから。
ということで、今回は反転させておきます。(6月22日、反転解除しました)


今回の舞台は「慶」。
荒廃する国を憂い、嘆き、それをどうにかして王に訴えたいと思っていた丕緒(ひしょ)。
彼は官吏ではあるけれども、彼と雲上の人々、つまり国を動かしている人たちとの間には、
天と地ほどもの身分の差があり、いかに彼が下界の民のことを案じ、
困窮する民の疲弊を訴えようと思っても、その術は皆無です。
そんな中で、丕緒は仲間を失い、自分の無力さを悟り、ついに世に背を向けてしまいます。
ところが彼が、嫌でも動かなければならないときが来ます。
新しく王が即位するというので、そのための陶鵲(とうしゃく)を作らねばならなくなったのです。
国家の重大な祭祀吉礼に際して、「鳥に見立てた陶製の的を投げて射る」という儀式があり、
その的=陶鵲を作る職人たちを指揮する、それが丕緒の仕事。
そこで彼は、一度は諦めた方法である「陶鵲を通して自分の思いを伝える」ことを再考し、
ついに新王の前で披露するに至るのですが……。

本作は、まさにこの「陶鵲」のような作品だと感じました。
陶鵲が射られて砕けるとき、どんな破片の舞を見せることができるか、
あるいはどんな音を出し、どんな香りを漂わせることができるか……といったところが、
職人たちの腕の見せ所。
しかしそこに込められた思いを感じることができるかどうかは、作り手だけでなく、
見る者の器量にもかかっている。
それと同じで、小野不由美さんは、自身が投げた陶鵲=この作品を読んだ読者が、
どういう思いを抱き、どう咀嚼するかを試しているような気がしてならないのです。
人はどんなに広い視野を持とうとしても、それはその人にとって広いという意味でしかなく、
実際には見えていないことが多いものなのだと思います。
また、人間関係の中において、自分の考えに懸命になればなるほど、
他人の思いに気づかなく、いや、気づけなくなってしまう……。
その考えがたとえ、己の欲のためではなく、他者を思ってのことだったとしても。
陶鵲が砕けるさまがあまりに見事の描かれているだけに、
そうした人間の隠れた性が、よりいっそう際立って心が苦しくなります。
本当に痛いのです。小野不由美さんの作品は、いつも胸をえぐります。

廷(にわ)にはしんと物音が絶えている。
一呼吸あって、人々が漏らした吐息がさざなみのように広がるのを聞いた。
 
(P65 10行目)

読み終えて、まさにその通りになりました。
主上、次もまた、6年でも10年でも待っています。

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