三国街道・与板へ行く

与板の町 新潟県は長岡市の与板町へ行ってきました。
 与板へは2ヶ月に1回くらい行ってますが、
 行くたびに「兼続色」が濃くなっています。(苦笑
 それまでは良寛の里という意識の方が、
 ずっと強かったはずなんですが、
 やっぱり「大河ドラマ」の威力は大きいですね。
 多分今年の夏頃だったと思いますが、
 写真の緑の幟があちこちに立ち始めました。
 その「町興しするぞー!」的な雰囲気に、
 実利があるのかどうかは別として、
 大河ドラマの影響力の大きさを実感。

しかし、かつての城下町とはいえ、今はとても小さな街なんですよね。
その商店街に、ほぼ10メートルおきに翻る緑の幟。
街が小さいだけに、見た目には少々ウザイです。(苦笑

さて、その商店街に入る前に、与板歴史民族資料館を訪ねました。
約半年前にも来てるんですが、内容は変わっていないものの、
ここもレイアウトが「兼続色」になってました。(苦笑
緑の幟のほかに、兼続公のお写真入り幟まで立っていて、
おまけに館内には観光地に必ずある「顔入れ写真撮影台/兼続&お船バージョン」まであり、
正直なところ、展示物と大河に便乗(?)しようという気持ちとにギャップを感じます。
というのも、ここには兼続に関するものはありません。
一応遺品として一通の書状と、
秀吉から賜ったとされる包丁藤次郎の刀が展示されてはいますが、
展示品のほとんどは、後の藩主井伊家、豪商大阪屋、そして良寛のものであって、
ここで直江時代の何かを求めることは、残念ながらできません。
あ、ついでに、以前は飾られていたかの有名な「愛の前立て」レプリカですけれども。

今はないです。

「愛」の字が思いっきり明朝体で贋物認定されちゃいました。(苦笑
多分大河の放送までには、正確なレプリカを仕上げてくると思いますけどね。
なので、唯一偲べるのは、資料館前の銅像のみです。

直江兼続銅像

イメージしていたよりも穏やかなお顔をした、壮年と思われる兼続公。
大河ではどなたが演じられるのでしょうか。

直江兼続が与板城主にあったのは、1581年から1598年までの約17年間。
その後の牧野家、井伊家の時代に比べればその治世は短く、
また米沢移封に伴って一切合財を米沢へ持っていってしまったことを考えれば、
この与板にその足跡がほとんど残っていないことは仕方ないのかもしれません。
地元の方でもつい最近までは「兼続って誰?」という感じだったようですし。
それが証拠に、贋作・愛の前立てレプリカ事件が起きたわけですしね。(苦笑

与板陣屋の大手門 さて資料館の隣りには西本願寺与板別院があり、
 与板城の大手門が移築されています。
 といってもこちらは兼続の居城であった与板城とは別物です。
 兼続が上杉の会津移封に従った際、城は廃城になりました。
 よって後の藩主牧野氏が、その城址の麓に新たに建築。
 こちらは平城、正確には与板陣屋といわれています。
 つまり、与板には兼続を偲べるものは何もないんですよね。
 本当に。
 与板城址はありますが、どこがどう城址だかわからず、
 素人には多分、ただの登山……らしいです。(爆

良い季節になったら、一度行ってみようとは思っているのですけれど。

町では何とか兼続アピールをしようとしているようですが、
事情が事情なだけに、それもなかなか難しかろうと思われます。
戦国の最後の荒波を、兼続は与板にあって乗り切ったのだと思うと、
その足跡が全部米沢に持っていかれてしまったのは、土地の者としては残念ですけれどね。

0 Comments

Leave a comment