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壁はなくなったけれど 

今日で、ベルリンの壁が崩壊して20年になります。
私は壁時代を知りません。
西ベルリンから東ベルリンに行くには当然ビザが必要で、強制的に換金しなくちゃいけなかったし、
1つの都市がこんな風に分断されているという状態が、話に聞くだけではありましたが、
当時何も知らなかった私にとってはとても奇妙でした。

ベルリンの壁の建設は、そもそも第二次世界大戦の敗戦処理に遡ります。
ドイツは戦後、米・英・仏・ソ連(当時)の占領地となり、
米・英・仏によるいわゆる資本主義の西ドイツと、旧ソ連の共産主義による東ドイツというように、
国の体制が整えられていきました。
さらに、戦時に中心都市として存在していたベルリンは、それゆえに、
1つの都市が4つの国によって分割されるという事態になってしまいました。
東側をソ連が、西側を北からフランス、イギリス、アメリカが統治するというややこしい状態。
東ベルリンは東ドイツの首都になりましたが、西ベルリンは3カ国統治のままでした。
つまり、ドイツ統一の直前まで、西ベルリンは西ドイツ領ではなかったんです。
確かパスポートも国籍が西ベルリン市民とかだったはず……。

東西に分断された当初は、ベルリン内をどちら側の市民も自由に行き来できていたんです。
だから東に住んで西で働くとか、その逆もありました。
ところが、これが自由を求めた東ドイツの国民の西ドイツへ流出につながりました。
西ベルリンを経由すれば、簡単に「自由の国」西ドイツへ行けたからです。
これに危機感を抱いた東ドイツ政府が、突然西ベルリンの周りを鉄条網で囲い始めました。
これがベルリンの壁の始まり。
つまりベルリンの壁って、東西に分けるためでも西ベルリンを遮断するわけでもなく、
東ドイツ国民が入れないようにするためのものだったんです。
西ベルリンをぐるりと囲む形で壁を築くわけですから、1日2日でできるはずもなく、
最初は鉄条網で境界線を作り、その後何度か改修しながら壁が完成したと聞いてます。
例えば、壁を乗り越えられないように、壁の上部を太く丸くしてつかめないようにしたりとか。
この突然の壁建設で、家族が離れ離れになった話はたくさんあります。
先に書いたように、東に住んで西で働くことが可能だったため、
朝出かけて仕事をしているうちに鉄条網が張られてしまい、家に帰れなくなったという……。

そんな壁が、これまた突然崩れたのが今から20年前。
時勢の混乱、東ドイツ政府の混乱から、「新しい(西へ行ける)旅行許可証を発行します」の政令が、
「いますぐ行き来自由!」になってしまって、東ベルリン市民が壁に殺到しちゃったんですよね。
何も知らない国境警備隊はなすすべがなかったといいます。
そこを目掛けて何千もの市民が押し寄せて西側へなだれこみ、
そのまま壁崩壊になったというなんともドラスティックな展開。
当時西ベルリンにいた日本人たちも、その様子に興奮して、
「今からちょっくらブランデンブルク門行ってくるわー!」
って感じで、壁崩壊を飲めや歌えやの大騒ぎで祝ったと聞きました。
あのときはみんなお祭り騒ぎでした。
でも。
その10年後。
壁崩壊10周年のときも、旧東独国民の多くが東ドイツへ戻りたいと言ってました。
東西の経済格差があまりに酷かったからです。
東の負債を背負う形になった西独国民も不満で、結構深刻なムードでした。
あるドイツ人が、「今ヒットラーが現れたら、多分また多くの人がついていくと思う」と言っていたのが、
ものすごい衝撃でした。
外国人の自分には、見た目は非常に発展してきているように感じられましたが、
国民にとってはそうではなく、ひどく低迷している時期だったのかもしれません。
そして今も、まだそれは変わっていないのでしょうか。
国を整えようとすると、20年という年月は長いようでいて、
実は充分な時間ではないのかもしれませんね。
久しぶりにベルリン、訪れたくなりました。
[ 2009/11/10 01:55 ] ニュース | TB(0) | CM(2)
20年前「ちょっくらブランデンブルク門に行って来るわ~」と申した者の一人の身内にございます(^^;)
でも、あの当日は「射殺命令」は解除されていなかったそうです。
もしかすると、流血の大惨事になっていたかもしれないのですよね。

あの時は、奇跡だと思いましたが・・・
奇跡を完成させるには、人類はまだまだ修行が足りないのかも知れません。
もっと、努力と時間が必要なのですね・・・
私もニュースで見て、複雑な気持ちになりました。
[ 2009/11/11 18:49 ] [ 編集 ]
> でも、あの当日は「射殺命令」は解除されていなかったそうです。
そうなんですよね。
全く何の命令も伝わっていなかったので、警備隊は普段どおり勤務してました。
でも民衆の流れにはすさまじいものがあったようで、
「もう我々にはどうしようもありません!」という悲鳴に近い報告もあったようです。
まるでバスティーユへ向かう民衆の如く!だったのでは……。

関東と関西が何かと張り合うのと同じで、ドイツも北と南で何かと張り合います。(笑
でもそれとこの東西の対立構造というのはまったく別で、もっと深刻ですよね……。
とても下世話な話ですが、現実問題、
人は余裕がなければ相手を思いやることができません。
心を豊かにしようとしても、やはりそれは衣食住が足りてのことなのでしょうし、
生活レベルに格差が顕著なうちは、どうしても負の感情が表面に出てきてしまうものなのかもしれないです。
自分含め、仰るとおり、修行が足りていないということなのでしょうね……。
[ 2009/11/12 01:33 ] [ 編集 ]
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