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『関東戦国史と御館の乱 ~上杉景虎・敗北の歴史的意味とは?』 伊東潤/乃至政彦 著 

久しぶりに新書を読みましたが、随分読みやすくなりましたね。
たまたま著者のおふたりの文体がそうなのか、
最近の若手研究者のみなさんにそういう傾向があるのかわかりませんが、
従来の遅々として読み進まない本、ではありませんでした。



さてこちら。
タイトル通り、上杉謙信の後継を争った「御館の乱」の考察です。
謙信の外交と、当時重要な関係にあった関東地方の状況を読み解きつつ、
御館の乱最大の謎、「謙信は誰を後継と定めていたのか」に切り込みます。
結論から言えば、本書は謙信の後継は「道満丸」、つまり三郎くんの息子だったとしています。
ありそうでなかった、新解釈ですね。
これまでは、
三郎くん後継者説、景勝くん後継者説、2人後継者説、未設定説、
この4つで論じられてきました。
道満丸は三郎くんの息子であり、景勝くんにとっては甥っ子にあたります。
謙信にとっては姪っ子(景勝くんの姉もしくは妹)の子どもですから、
要するに全員と血縁関係があるわけで、「一番角が立たなさそうな」人選ではあります。

本書は私が長らく疑問に思っていた2点に明確な回答を与えてくれました。
ひとつは、幼少期に謙信の養子となった景勝くんが実家に戻っていた時期があり、
それが結構長期だったのはなぜなのか
、という点です。
これは、一時謙信の後継として養子になったものの、
実家である上田長尾家の跡継ぎがいなくなったために当主となるべく戻された、としていました。
これには納得です。
これなら長期にわたって実家にいたことも、上田長尾の兵を率いて出兵していたことも、説明がつきます。
そこで謙信は、関東北条との和睦の証として送られてきた人質=三郎くんを、
人質としてではなく、自身の後継として迎えることにします。
謙信には実子がいませんから、姪に当たる景勝くんの姉(妹)を養女にし、
三郎くんをその婿に迎えるという手段を取りました。
関東との間に平穏を保つためには、当時取りうるべき最良の方法だったのでしょう。
ところがこの北条との同盟状態はあっけなく崩れます。
その結果、三郎くんを後継として置くことはできなくなりました。
そこで景勝くんが再度、謙信のもとに呼ばれるわけです。
こうしてふたりの養子が立ち並ぶことになってしまいました。
当時すでに道満丸は生まれていたわけですが、当然まだ幼子です。
そこで謙信は道満丸を正当な後継とする上で、景勝くんを中継ぎ(陣代)としたわけですね。

もうひとつ疑問に思っていたことは、謙信が死去してから御館の乱勃発まで、
なぜ1ヶ月以上も時間が経過しているのか
、という点です。
従来の話では、謙信が亡くなった直後に景勝くんが実城(本丸)を奪取したとされてきました。
武器やお金も押さえるしたたかさだったというように書かれています。
だとすれば、初めから景勝くんは三郎くんと事を構える気満々だったわけで、
なぜその後ひと月以上も何もせずに手をこまねいていたのでしょうか?
ところが本書では、景勝くんは予定通り実城に入ったのであり、そこに混乱はなかったとしています。
要するに、謙信亡き後は景勝くんが家中をまとめることは皆に認められていた、というわけです。
それであれば乱が起きるまでひと月以上経過していてもおかしくはないですし、
当初景勝派だった人たちが乱勃発に際して三郎くん側に寝返っていったのもわかります。
ふたりが争うことになった原因は割愛しますが、
謙信は景勝くんを陣代として道満丸を次期に指名し、
家中もそのつもりでいたところ、予期せぬ事案により乱に発展した
というのが、
本書の見解であろうかと思います。

「道満丸が後継者であれば全員満足するだろう」と、本書はまとめています。
が、しかし。
果たしてそうでしょうか?
この人事に景勝くんが納得するでしょうか?
三郎くんは家中でのポジションは下げられたかもしれませんが、隠居すらしていないのです。
後継者の父として、いつなんどきどんな行動を起こすかもわかりません。
三郎くんにしても、義弟に息子を預けることには獏とした不安がつきまとったはずです。
これらを払拭できるだけの論は、ここでは提示されていませんでした。
さらに本書では、謙信は景勝くんが陣代だからこそ妻を娶らせなかった、とも述べています。
景勝くんに嫡男でも生まれたら、新たな紛争の火種になるからです。
果たしてこれに、上田長尾の実家が黙っているでしょうか?
陣代ということは、私の認識が間違っていなければ、
景勝くんの本来の地位は上田長尾家の当主であるはずです。
その当主に実子がいないなど、これまた上杉家と同じ問題を抱えよということでしょうか?

こうして考えてみると、後継者道満丸説はありえそうではあるのですが、
本書だけでは個人的に、「まるっと納得」というわけにはいきませんでした。
景勝くんが御館の乱まで嫁を取らなかった点については、
その立場が二転三転したことと、謙信の外交政策がコロコロ変わったことにより、
相手選びがままならなかったからというのはないでしょうか。
結婚が政治である以上、より有効な使いみちを考えなければならないわけで、
実子のいない謙信としては、
血縁関係にある景勝くんの嫁取りには慎重だったとも考えらるように思います。
とはいえ、本書は説得力もあり、なおかつ展開も非常に面白く、
これをさらに裏付ける史料の登場が待たれます。
[ 2016/03/16 01:25 ] 上杉氏(史料・資料) | TB(0) | CM(0)

復刊~~~!? 

どうも設置しているメールフォームが不具合を生じているらしく、
ここからメールを送っていただいても届いていないようです……。
それも、多分去年から。(汗
昨年10月くらいまでは普通に機能していたはずなのですが、その後なぜか届かなくなったようで、
もしかして私、方々に失礼しているのではないかと不安になっております。
送っていただいたメールがどこへ行ったのかを考えるとますます恐ろしく。
さっき自分で自分に送ったテストメールもどこへ行ったのやら。

メール送ったのに返事もらってねえよ、コラァ\(*`∧´)/

という方、大変申し訳ございません。
ひたすら平伏するしかございません。
とりあえず復旧に向けて試行錯誤しております……が!
目もまだ酷使できないので、しばらく時間がかかりそうです。
初めはFC2の不具合だろうと思ったんですが、
そういう問題も出てないみたいでどうすりゃいいのかよくわかりません。

メールフォームに関しては本当にすっきりしないんですが、
メールは普通に使えているわけで、新刊お知らせが届いてました。

あの幻の景勝本が、復刊!?

『上杉景勝』(児玉彰三郎/著 児玉彰三郎氏遺著刊行会/編)
ブレインキャスト 税込価格2,940円

ついに、図書館の書庫から出してもらわなくてもよくなったのですねー!
しかし、注文しようとしたらもう「お取り寄せ」ですか? 出たばかりなのに?
景勝公もそれほどにまで人気が……!?
[ 2010/03/01 02:10 ] 上杉氏(史料・資料) | TB(0) | CM(4)

快く? 渋々? 

今朝の新潟日報に、南魚沼の雲洞庵に飾られている額についての記事が載っていました。
黄金の縁に囲まれた青い背景の上に、これまた金の文字で大きく「祈祷」と書かれています。
この額は、承久の乱(1221年)で敗れて佐渡に流された順徳天皇の手によるとされています。
もともと佐渡の長安寺に飾ってあったものを、上杉景勝が雲洞庵に飾りたいと持ち帰ったとか。
昨年雲洞庵に行きましたが、そんなことはどこにも書いてなかった気がします。
この額、雲洞庵では「長安寺より快く奉納された」としていますが、
一方の長安寺は、「寺が進んで差し出したものではないと思う」としていました。

佐渡は、鎌倉時代に相模の本間氏が佐渡守護代になって以来、
戦国末期まで本間一族が勢力を張ってきた土地です。
一族が割拠して争いが絶えない中、豊臣秀吉の命で上杉景勝が佐渡平定に乗り出します。
この辺の事情はもっと複雑ですが、とりあえず関係ないので省略。
上杉氏の佐渡攻略(1589年)は成功し、上杉方に味方した本間家は越後に領地を移され、
敗れた本間家は滅びた者もあれば、能登などへ逃れた者もあるといいます。
その後佐渡は直江兼続が治め、上田衆・与板衆が代官として入ります。

雲洞庵の「祈祷」の額はこのときに持ち帰ったものということになりますが、
はたして「快く」持って帰らせてもらったのか、「渋々」差し出されたものなのか。
景勝が幼い頃学んだ縁を持つ雲洞庵と、侵攻された土地に建つ長安寺とでは、
その言い分が逆になるのも当然でしょうね。
敗れた本間家の中に、生き残ってそのまま佐渡に隠れ住んだ人がいるようで、
その一家は明治になっても景勝を呪う儀式をしていたと、とあるサイトで読みました。
上杉vs本間の部分を詳しく書いてあるものを読んだことがないですし、
佐渡の歴史については知識が皆無なので、ここで何か意見を展開することはできませんが、
何かと「義」ばかり強調される上杉家であっても、
「義」だけでは乱世を生き抜けないというのもまた事実であるのでしょう。

さて、実はここからが本題だったりします。(苦笑
私は随分前から、この佐渡の本間氏と酒田の本間さまは関係がないのだろうかと思っていました。
そう、あの「本間さまには及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」の本間さまです。
今は便利な情報溢れるインターネットがございます。
この機会にちょっとググってみたところ、やっぱり関係はあるようですがはっきりしません。
「ようですが」、というのは、自分が見る限り3つの説があり、
そのどれとも判別できる資料を確認できていないから。

説1 佐渡に入った本間氏のある一族が南北朝時代に出羽へ渡り、その後大宝寺氏に仕えた
説2 上杉景勝の佐渡征伐で越後へ移された本間家のある一族が、出羽へ移り住んだ
説3 上杉景勝の佐渡征伐で敗れた本間家の者が、出羽へ落ち延びた


酒田の本間さまの起源を調べてみると、
初代は「新潟屋」とか「越後屋」という屋号で商売を始めたとあります。
とすると、本間さまが越後からやってきたことは間違いないのでしょう。
しかしいつ? どのようにして?
どなたか詳しいことをご存知でしたら、ぜひ教えてください。
戦国期の佐渡は史料がほとんどないようですが、内紛ばかりだった本間家ですとか、
なんだか新しい興味がわいてきました~。
[ 2009/02/06 22:27 ] 上杉氏(史料・資料) | TB(0) | CM(4)

景勝公の新刊とかシンポジウムとか 

世間はお盆休みに突入ですね。
しかし我が家はお盆の行事が忙しいので、お盆は休みではなく繁忙期のような感じです。
今日はお盆に備えて大量の買出しをしたのですが、その途中で久しぶりに本屋を覗き、
案の定、衝動買いしてしまいました!(笑

サライ 2008年 8/21号 [雑誌]サライ 2008年 8/21号 [雑誌]
(2008/08/07)

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サライは内容が穏やかで、且つ特集は読み応えがあり、よく手に取る雑誌です。
今回は日本の国宝がテーマですが、綴じ込み付録が「上杉本 洛中洛外図」だったので、
立ち読みせずにそのままレジへ走ってました。(苦笑
残念ながら右隻だけなんですが、考察本を読んでいたときに実物がなくて困ったので、
これを見ながらちょっと再読したいと思います。
左隻がないのがなんとも残念ですが、付録にしてくれただけでも感謝しないと!
他の国宝については、徐々に勉強という感じです。
何しろ随分長いこと世界史に傾倒していたので、日本文化はまだまだです……。(汗

そんなところへ新刊情報が。
多分2-3日中のことだと思うんですが、
学研M文庫から「上杉謙信・景勝・直江兼続 軍神の系譜」というのが出ます。

上杉謙信・景勝・直江兼続軍神の系譜 上杉謙信・景勝・直江兼続軍神の系譜
坂上天陽 著
学研M文庫


商品詳細を見る


Amazonに画像がなかったので、楽天さんから。
私、坂上天陽氏を全く存じ上げないのですが、ググってみたところ、
IF小説をお書きになられる方なのでしょうか?
あまりレビューなどに行き当たらなかったのですが、どんな作風なんでしょう。
学研の紹介によると、上杉謙信、景虎、景勝、直江兼続が登場し、
手取川の戦いから御舘の乱までの上杉家激動の2年間を描くとあります。(一部引用)
これは一見普通の歴史小説に見えますが、もしかしたらIFものなんでしょうか。

「聖将」を演じる孤高の上杉謙信。養父の力を認めつつもそれを否定する景勝。

この描き方には非常に興味をそそられますけれども……。
どなたか、作家さんの情報をお願いいたします。
それにしても、また御館の乱なんですねー。
日本を二分した関ヶ原に負けず劣らず、家中を二分したお家騒動も濃いドラマではありますが、
もうちょっと別な視点からも景勝時代を読んでみたいですねえ。

その御館の乱の最終舞台となった鮫ヶ尾城ですが、先ごろ国指定の城址になりまして、
今月31日に「鮫ケ尾城跡国指定シンポジウム」が開かれます。
県内とはいえ、すっと行ける場所じゃないので、参加を迷っているのですが、
景勝公のライバル三郎景虎の側近が使っていた脇差が見つかり
このシンポジウムで一般公開されるとの情報が!
刀剣に惹かれてしまう私としては、参加へのモチベーションがググッとアップ。(笑
新潟日報の記事によると、脇差は長さ約30センチで、
15世紀から16世紀にかけての室町時代後期の相模の刀工「広正(ひろまさ)」の銘入り。
側近のご子孫が住宅を解体した時に屋根裏で発見され、鑑定が進められていたとのこと。
この側近は三郎くんと共に小田原から越後に来た軍師のようで、
三郎くん自害後は、妙高に落ちのびたとされているとか。
当時の刀は飾り物ではなく実使用なわけですから、
やはり他の遺品とは違う、まさに妖気のようなエネルギーを持っていると感じます。
御館の乱を知ろうとすればするほどその壮絶さが見えてきて、
こういう刀を見るのはなおさら怖い気がしますが……。
このシンポジウムでは北条氏の研究をされている黒田基樹氏の講演もあるので、
ぜひとも聞きたいところではあるんですが、行きにくいんだよなあ、新井市……。(汗
[ 2008/08/12 23:06 ] 上杉氏(史料・資料) | TB(0) | CM(10)

安吾史譚(その四) 直江山城守 

新潟市歴史博物館で開催されている、
「ムラの学校・マチの学校 ―地域が支えた人づくり―」を見に行ってきました。
江戸期の寺子屋、講に始まり、藩校が開かれ、塾が広まり、やがて尋常小学校、
そして戦後の6・3・3制へと至る学校の移り変わりが紹介されています。
尋常小学校は基本的に月謝制だったとか、家の事情で学校へ通えない子供のために、
子守をしながら(=赤ちゃん連れOK)勉強できる子守学校があったとか、
町に学校を作るために名士が奔走した記録だとか、かなりの数の資料とともに、
主に学校のハード面に関わる歴史をうかがい知ることができました。
そんな中、なんと榎本武揚の「往事夢如」という書が!
これには歴史好きの血が騒ぎます。(苦笑
榎本さんの字は自信に溢れているように見えますが、
その筆跡の丁寧なところが、非常に真面目で人情に厚い人柄を思わせました。
墨の濃さ、筆の入出がとても心地良いのです。
教科書としては、小学校の県史の教科書が紹介されていましたが、
例として掲げられていたページの内容が、なんと「落水(墜水)の会」のところ!
これ、明らかに狙ってますよね~。
見開き1ページに「景勝」の文字が5つくらいあったおかげで、
私みたいなのが大喜びしてるじゃないですか。(爆
ああ、この教科書で勉強したかった~!

と、本来の展示物とは随分かけ離れた事柄にばかり見入ってしまいましたが、
今回の収穫は、坂口安吾の「安吾史譚(その四) 直江山城守」のコピー。
そしてやっぱりムラの学校と全く関係ないし!(苦笑
実はエントランスで「天地人パネル展」が開かれておりまして、
大河の配役表だとか、年表、上杉に関わる新潟市の旧跡などが、
パネルで紹介されていたのですが、そこでこのコピーが配布されてたんです。
地元民ながら、私はこれまでに坂口安吾の著書を読んだことがなかったんですが、
小説となるとまた違うのかもしれませんが、この人物評は言い回しも結構面白く、
サクサクっと読めてしまいました。
小説「天地人」における「謙信-兼続-幸村という師弟関係」の元ネタは、
これだったのでしょうか?
特に謙信のことを「教祖」だとか、「喧嘩好きの坊主」だとか言い切っているところが面白い。
「義」だなんだという理屈よりも、「大義名分が好物のハリキリ将軍」で片付けているところが、
いっそ戦国武将にふさわしい評価のようにも思えてしまいます。(苦笑
その弟子の兼続は、「行きがかりの義理を愛する策戦マニア」と位置づけ、
謙信との差を「戦争ごっこを楽しむだけの男ではない」として、兼続のほうを評価しています。
この人物評をどうとらえるかは別として、なかなか興味深い読み物でした。
他に小西行長や、源頼朝についても書いているようなので、今度読んでみようかと思います。
[ 2008/08/06 21:56 ] 上杉氏(史料・資料) | TB(0) | CM(8)

文書の姿 

びびんばさんのところの景勝君が、御自ら上杉家文書を届けてくれました!


書状の折り方

2001年に国宝に指定された上杉家文書は、
現在伝わる文書の多くが表装されているのに対し、
遣り取りされた当時のまま残っているところに非常に大きな価値があるように思います。
そしてこれがまた、保存状態がとても良いようで。

米沢の上杉博物館では、実際に書状を折ってみることができるそうで、
びびんばさんが実際に折ってくださったものを、景勝君に託されたという次第。
開いてあるものは秀吉公からの書状で、「会津へ国替えしてもらいます」というもの。
封がしてあるほうは、将軍足利義輝公から謙信宛のもので、
「腫れ物を患っていたそうですが、お加減いかがですか」というもの。
国替えの件はいいとしても、なぜ「腫れ物」……といった、超プライベートな書状を、
体験学習(笑)の題材にするのかと思ったのですが、
これは書状の中身よりも、その封印の仕方に特徴があるということでした。

捻封 

 ← 上部を折って、さらに捻り返す「捻封」
    下部は折ったままの折封になっています。








足利義輝花押 

 ← 封だけでなく、ちゃんと中に書状が!
    足利義輝公の花押が見えます。








昔の使者は、これを持って山を越えたりしてたんですね。
珍しくって面白くって、開いたり畳んだり開いたり畳んだりを繰り返した挙句、
すっかり封がボロボロになってしまいました~。(苦笑
びびんばさん(と、景勝君)、レアなものをありがとうございました!
[ 2008/05/18 23:31 ] 上杉氏(史料・資料) | TB(0) | CM(4)

越後の龍 謙信と上杉一族 

上杉家に興味を持って日の浅い私は、いわゆる総括本というか、
入門書みたいなものを全く読んでいなかったので、新刊だったこれを買ってみました。


越後の龍 謙信と上杉一族 越後の龍 謙信と上杉一族 
 別冊歴史読本  96
 出版社名 新人物往来社
 発行年月 2008年02月
 価格 2,100円(税込)


謙信の父、長尾為景のあたりから明治頃までを、とりあえず網羅しています。
写真がいっぱいな点は面白いのですが、中身は……。
「これ、どっかで読んだような……???」
というような文が多く、どうやらいくつかの記事が使いまわしのようです。(汗
最初に見たとき、執筆者に作家が多いっていうのはどうかとは思ったのですが、
お城とか、年表とか、家臣団とか、それなりにまとめてあったので、
事典代わりにはなるかなあと思ったんですよね。
でも考証的には昔のままのものもありますし、何より出典が記されてないのはいただけない。
その事柄がいまだ不確かな内容なのか、事実として認められたことなのか、
判断のできない初心者にとっては、出典を載せていただくことは大事。
そしてその出典の史料にあたるのがまた面白いのにー!
要するにこの冊子、読み物と捉えるしかないようです。
読み物としちゃ、かなりつまんないかもしれないですが、
目で楽しむ分には申し分なかろうかと思われます。(苦笑
あ、小説読むときとか役立ちそうですね。

中には結構誤字もあったりするんですが、思わず出版社に電話してしまった記述が1つ。
それを見つけたのは、上杉一門衆の項をパラパラとめくっていたときのこと。
一門の方々が、それなりの文字数を割いて紹介されてるんですけど、
『景勝と袂を分かって 徳川へ出奔 上条政繁
ページをめくり…………、
『景勝と袂を分かって 徳川へ出奔 上条政繁
ん? ん? んんん?
えーーーーーーーー、おんなじやん!!!
上条さんにタイトルを占領されてしまった気の毒なお方は、
武田に追われて越後にやってきた村上義清の息子、村上国清。
村上国清、私はどっちかっていうと山浦源五という名のほうが親しんでますけど、
山浦殿にはどんなタイトルがついていたのか、めっちゃ気になります!
めったなことじゃ電話しない私が、上杉病を発病してますゆえ、さっそくダイヤル。

私:あのー、そちらで出版された「謙信と上杉一族」を購入したんですけれども
出版社:それはどうもありがとうございます
私:それでですね、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが
出版社:はい、なんでしょう?
私:△△ページなんですが、上条さんが2人いるんですけど!
出版社:…………あ、あああっ(絶句
私:……(電話したの、私が最初だったのかー)
出版社:ここ、私が担当したんです。あれだけ見直したのに……(意気消沈
私:それで、この村上国清のタイトルはなんだったんでしょうかっ?
出版社:はい、「一門に迎えられた 敗残の名族」です(脱力
私:そうですか、わかりました
出版社:あの、再版するときには必ず直しますので、そのときはまた宜しくお願いいたします!
私:はい(っていっても2冊も買わないわよっ)

編集のお兄さんのガックリくる気持ちはよくわかりますけれども……。(苦笑
ということで、山浦源五殿のタイトルは、
『一門に迎えられた 敗残の名族 村上国清
だそうです、みなさま。

最後になっちゃったけど、この本を見てびっくりしたのが、
三郎くん(上杉景虎)の石像が妙高市にあって、それが五月人形の金太郎みたいだったこと!
三郎くんは三国一の美男子といわれていて、確かにこの石像も凛々しくて悪くないんだけど、
三郎くんのイメージはもっと細面な感じだったので、私的にはかなりの衝撃。(苦笑
あの石像はいつどのようにして作られたものなのでしょうか。

因みに五月人形といえば、こんなのも見つけてしまいました。
これを飾ったら、きっと律儀で忍耐強い子に育つことでしょう。
無口すぎるかもしれないけどね。(笑

五月人形 鎧飾り 久月 上杉景勝公之胴丸10号 松刺繍二曲屏風飾り五月人形 鎧飾り 久月 上杉景勝公之胴丸10号 松刺繍二曲屏風飾り
価格: ¥ 273,000 (税込)

商品詳細を見る
[ 2008/03/31 23:28 ] 上杉氏(史料・資料) | TB(0) | CM(6)

あれは偶然です。 

先日のテレ朝「徳川家康と三人の女」、やっと視聴しました。
考えたら1月からの連ドラ、1個も見ていません。
大河の「篤姫」も3回くらいしか見てない……。
ということで、かなり久しぶりにテレビドラマを見たんですが、
それもこれも、「景勝さまが出るかも?」という淡~~~い期待があったからです。(苦笑
結論から言うと、名前は出たけど本人は出なかった。
いや、出たけどその他大勢に混じっていてどれだかわかんなかったです。(爆

今回はドラマの感想を述べたいわけではなく、
ドラマであの「関ヶ原」があっさり片付いてしまったのを見て、思い出したことがあったのです。
それは、私、1ヶ月以上も前に「上杉謙信と直江兼続」という講演会に行ったんだった!

あれは某会が主催した講演会で、上杉関係では有名な某大教授がお話くださったんですが、
まず最初に講演の全体像を述べられたとき、
「本当は上杉謙信と上杉景勝でもよかったんですが、
大河のこともありますし、今回は直江兼続とすることにしました」
と言われたので、「だったら景勝さまのが……」とかコッソリ思っていたら、

「上杉景勝の歴史は直江兼続の歴史であり、
直江兼続の歴史は上杉景勝の歴史ですから」


と、爆弾(?)発言。
最初の2分で、私、撃沈してしまいました。(爆
上杉景勝と直江兼続は水魚の交わりだったとかっていう表現はよく目にしますけど、
この言葉は強烈でしたよ!!!
水魚どころじゃなく、人生二人三脚でかぶっちゃってるんですよ!!!
まさにその通りであるだけに、1人で萌えてしまいました……。

ということで、しばらくボーっとしながら(笑)謙信叔父さんについてのお話を聞きましたが、
謙信に時間をかけすぎたのか、兼続のほうが駆け足状態になってしまったのが残念。
流れとしては、ほとんどはよく知られた事柄だったのですが、
合間合間に、格が上がると文書の形式が変わるとか、
上杉の味方になったり離反したりを繰り返した北条(きたじょう)氏は、
大国にはさまれた小勢力であり、しかも最前線における自立した領主としては、
生き延びるための当然の行動をしているだけで、今で言う裏切りには当たらないとか、
上杉家の会津への移封は栄転だったとか、
直江兼続が徳川重臣・本多正信と懇意にしていたのは、上杉家のための「保険」だったとか、
非常に充実したレジュメに従って、興味深いお話も伺えました。
そんな中で「おお!」と思ったネタが関ヶ原の話。
実際は、講演終了後に男性が個人的に質問しているのをそばで聞いていたのですが、
実はこれが一番面白かった!!!
男性が尋ねたことは以下の通り。

関が原の合戦は、家康を討つために、直江兼続と石田三成が共謀した結果とか、
石田三成を討つために、家康があえて上杉討伐に向かって起こったとか言われていますが、
そのあたりの真相はどうなんですか?」

おお、みんなが興味を持っている事柄をズバリ質問してきましたね!
それに対する教授の答え。

「ああ、それは今ではもう古い考えですね。
まず兼続と三成が共謀したという証拠はありませんし、
実際そういう事実はなかったと見られています。
それから家康が三成を討つためにという話に関してですが、
あの時点でね、三成を討つ必要性はないんですよ。
家康の敵は豊臣秀頼であって、家臣の三成を討ったってしょうがないじゃないですか。
家康は本気で上杉を征伐するために会津へ出かけたんですよ。
そこへ三成が、『今なら僕が天下を取れるかも?』って、兵を挙げただけで、
関ヶ原は共謀でも策略でもなんでもない、偶然の結果です」

えええー。偶然なの? 偶然の結果なの?
そう思っているところへ教授が続けます。

「いくらなんでもね、人はそこまで先は読めないですよ。
今は大方こういう見方にまとまっているので、
これからの小説やドラマは、かなりひねったものにしてもらわないとね(笑

教授はドラマや小説といった創作物にはとても寛容な方らしく、
ドラマなんだから面白くないとってしきりに仰ってました。
それにしても関ヶ原を偶然の一言で片付けられるとは……。
確かにそのほうが現実的な気はしますけど。
うーん、ちょっと関ヶ原の考察本でも読んでみようかと思います。
[ 2008/03/18 00:39 ] 上杉氏(史料・資料) | TB(0) | CM(4)

230万円 

上杉謙信の直筆とされる書状一幅230万円-----。
果たしてこれは安いのか、高いのか。

(新潟)県は10日までに、上杉謙信の直筆の可能性が高いとされる書状1幅と、
関ケ原の合戦前にしたためられたとされる直江兼続の書状「直江状」の写し1巻を
購入することを決めた。                  (新潟日報より)



朝刊1面にでっかく掲載されていたので、朝から写真をガン見してしまいました。(笑
というのも、この謙信直筆とされる書状というのが、
「入心さひさひ音信」で始まる、かの有名な幼い景勝くんに宛てたものだったからです!!!
この書状は、謙信の関東侵攻時(永禄5~7年ころ)に書かれたのではないかとされ、
当時6~8歳くらいだった景勝くん(その頃は喜平次くん)からもらったお手紙への返信で、
「心のこもった便りをありがとう。もうすぐ叔父さんも用を済ませて帰ります。
そのときいろいろお話しましょう。字が上達したようなので、習字のお手本を送りますよ」

大雑把にこんな内容になっています。
わからないのは、新聞記事にはさらに、
「上杉博物館が所蔵する国宝「上杉家文書」にも同様の書状が含まれている」
とあるのですが、これはいかなる意味にございましょうか。
同じ文書が2通あるということですか?
県が購入するほうが直筆ということは、上杉博物館が所蔵しているものは、写し?
そう思って、手元の資料に掲載されている上杉博物館の書状を見てみたら、
文字の配列が明らかに違っていました……。
ということは、これまで私が謙信叔父さんの字だと思っていたものは、
他人の字だったということなのですかーーーーーーーー?(吃驚
それにしても、こんなプライベートな書状がなぜ2通あるんでしょうか。
ちゃんと花押まであるし……。
どなたか古文書に詳しい方、教えてください。
県が購入したら、県立歴史博物館に所蔵されるそうなので、
私、今から見に行く気マンマンです!
だって、前回この博物館に行ったときの展示物に不満だったんだもの。(苦笑
でも考えてみたら、大名の場合、だれだれの書状といっても、
政治関係のものなら、本人の直筆より右筆のものであることのほうが多いんでしょうね。
今の会社と同じで、文書は部下(右筆他)に作らせ、
社長(殿様)はそれにサイン(署名)して、ハンコ(花押)押すだけ。
だから景勝さまの書状といっても、景勝さまの字ではないことのほうが多いのでは……と。
そういうことを、私はすっかり失念してました。
でも素人には、どれが直筆でどれが右筆によるものかなんてわかんないしなあ。
本文と署名の墨の違いとかは、実物を見ればわかるのかもしれないけど。
で、この書状が230万円ということで、最初「結構安いんだなあ」と思ったんですが、
うちの母が一言。
「そんなね、字が上手になったから叔父さんがお手本書いてあげるよーなんていう、
歴史的になんの影響もない、フツーの叔父さんと甥っ子の文通でしかないんだから、
そんなもんなんじゃないのー」
母に言われると、何か本当にフツーのたわいもない書状に思えてきました。(苦笑
でも直筆だし、軍事関係がほとんどの謙信書状の中で、
プライベートな部分を垣間見せる唯一の書状だとされているし……。
因みにもっと政治的に大きな案件を扱った書状だったらどのくらいの値がつくんでしょうね。

最後になっちゃったけど、「直江状」の写しは30万円。
まあこちらはこんなものかな。
だけど直江状の写しって、何で複数存在してるんだろう。
「すごい手紙だ」と、写し合いっこして回して読んだりしたんだろうか。
いずれにせよ、歴史にはまると、文書というのは興味尽きない世界ですね。
[ 2008/03/11 22:13 ] 上杉氏(史料・資料) | TB(0) | CM(2)

羽州街道・佐渡のみち (街道をゆく 10) 司馬遼太郎 著 

今年は上杉を訪ねて米沢に行こうと思っているのですが、その前に予習をと思い、
司馬遼太郎さんの「街道をゆく」を読んでみることにしました。
前半は「羽州街道」ということで、東根、天童、山形、上ノ山、米沢と南下していく旅でした。
仏教の歴史から万葉集、松尾芭蕉、あるいは紅花の伝来についてや、
さらには日本史と中国史の根本的な差、庄内出身の幕末の志士・清川八郎のことなど、
とにかく薀蓄のどれもこれもが私にとっては「へ~」の連続で、道中の描写とあわせると、
まるで司馬遼太郎と一緒にタクシーに乗って旅をしながら、
貴重な話を聞いているかのような錯覚に陥ります。(苦笑
そんな中でもかなりの紙面が割かれているのが上杉家の話なのですが、
謙信が卒倒してから上杉家が米沢に封じられるまでを実に簡潔に、面白く書いているので、
「なんで司馬遼太郎は上杉の話を書いてくれなかったんだろう……」
などと、考えてもしょうがないことを思ってしまいました。(苦笑
何しろ司馬遼太郎さんは、
私は、謙信のあとを継いだ上杉景勝という人物を、
謙信や直江兼続の華やかさよりも好きであるかもしれない。
(P50)
と、記しているくらいで、私もそれには心の底から激しく同意を示すところなのですけど(爆)、
それならやっぱり、「ぜひとも景勝さまの小説を書いて欲しかったなあ」と思ってしまいます。

街道をゆく (10) (朝日文芸文庫 (し1-11))街道をゆく (10) (朝日文芸文庫 (し1-11))
(1983/01)
司馬 遼太郎

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後半は佐渡のみちで、主に真野湾に面した街を旅していきます。
一応同県民ではあるものの、一度も行ったことのない佐渡なのですが、
ジェットフォイルなら北航路の新潟~両津間が1時間ですし、
南航路の直江津~小木間も2時間半くらいで行けたと思います。
つまり、今ではかなり近い島であることはわかっているのですが、
太宰治が佐渡を満州と思い込んだり、司馬遼太郎さん自身も戦時中満州から移動する際、
佐渡島を見てアリューシャン列島の一部だと思ってしまうなど、
佐渡というのは日本からかなり離れた場所に位置する島であるという観念があるだけでなく、
人が島に対して持つイメージよりも、かなり大きな島なのかもしれません。
日本は稲作を中心とした内陸的生活のため、人は海に対してかなりの恐怖があり、
そのあたりも太宰治や司馬遼太郎自身が陥った錯覚に結びついているのではという件は、
なるほどなあと非常に新鮮に読みました。
金山を有し、しかし江戸からは遠いゆえに役人の腐敗も酷かった佐渡。
大久保長安、江戸末期の名吏・川路聖謨(としあきら)のことなどを読むにつれ、
流刑地から黄金の島に変化した佐渡の存在に、ちょっと興味を持ちました。
ある意味地元なのに、全く何も知らなかったので……。(苦笑
こちらにもチョコチョコ景勝さまは登場します。
ということで、景勝さまスキーにとっても、かなーり興味深い1冊だと言えるでしょう。
[ 2008/03/04 20:00 ] 上杉氏(史料・資料) | TB(0) | CM(4)