Step by Step

いろいろなことを、気の向くままに。   
PROFILE
Author:カタリーナ
【ごあいさつ】
ご覧頂きありがとうございます。
超雑多なブログですが、
お付き合いのほど、
どうぞ宜しくお願いします。
コメント、TBも大歓迎です。
但し、記事と関連性のないものは、
ご遠慮くださいね。
予告なく削除させて頂きますので、
ご了承ください。
RECENT COMMENTS
CATEGORIES
ARCHIVES
レビューINDEX
RECENT TRACKBACK
BLOG LIST
メールはこちらから

名前:
メール:
件名:
本文:

ブログ内検索
カゲカツィストの会
己鏡のびびんばさん作成

カゲカツィストの会ロゴ
上杉景勝公をリスペクトする会

当ブログバナー
カゲカツィスト会員NO.3記念
TOTAL
Now On Line

ついに登城いたしました 

この連休中、春日山城に登城いたしました。

謙信公像

ついに謙信公とご対面!

景勝公のお屋敷を訪ねることができて、大感動でございます。

いつも図面でしか見たことのなかった春日山城。

実際に登ってみなければ絶対にわからないと思っていた屋敷の位置関係。

やはり百聞は一見にしかず!


ここを訪れてくださるみなさんは、
私がすっかり上杉さんから足を洗ったとお思いかもしれませんが、
とんでもございません。
単に読みかけの本ばかりで記事にできないだけでございます。
積読本を消化することができるのはいつ……。(汗
ということで、今読んでいるのがこちら。

上杉景虎―謙信後継を狙った反主流派の盟主上杉景虎―謙信後継を狙った反主流派の盟主
(2011/01/27)
今福 匡

商品詳細を見る


本当は春日山城に登る前に読み終えたかったんですが、結局半分までしか読めてません。
御館の乱を中心に上杉家を見ていく考察本です。
最大のテーマはやはり「謙信は誰を後継に考えていたか?」になるんだと思いますが、
こちらをちらりと読んだことで、今回の登城がさらに有意義なものとなりました。

それにしても春日山城は標高は低いとはいえ、そのスケールに圧倒されました。
地元に住んでいたら通いたいくらいだわーーー!

そしてただいま、絶賛筋肉痛中。(苦笑

近くて遠い春日山 

なぜか高田に来ています。
郵便ポストの上に謙信が!!

高田のポスト

赤塚城? 

赤塚、といえば、東京の赤塚城を思い浮かべる人が多いと思いますが、
新潟にも赤塚という土地があります。
実はここに村上義清の供養塚があることを最近知りました。
場所は下の地図のAポイントよりも上のほうだと思います。


大きな地図で見る

赤塚は、室町時代から小国氏(戦国末期に直江兼続の弟が継ぐ)の領地だったようで、
小国家重臣の石黒氏が、城代として赤塚城に入っていたようです。
その石黒氏がどうやら村上義清と親しかったようで、塚を建てたのではと、
手元のパンフレットには書いてありました。
そういえば、村上義清のお墓ってどこにあるんだろう……。
確か病没でしたよね。
赤塚は自宅からそう遠い場所でもないのですが、
こんなところに戦国の山城があったことを全く知りませんでした。(どうやら今も空堀があるらしい)
そもそも赤塚城の存在は、私が見た範囲の上杉関連資料には明記されていません。
しかしこの赤塚城は、上杉vs徳川のあの戦いの折に起きた上杉遺民一揆で、
一揆側が立てこもった城であるとパンフレットには書いてあります。
関ヶ原当時、かつての赤塚城代石黒氏は上杉家と共に会津には移っておらず、
そのまま赤塚に残っているのですが、一揆に参加したのではなく鎮圧した側になっていました。
ということは、赤塚城は上杉家会津移封時に廃城になり、
そのまま打ち捨てられていたということでしょうか?
では石黒家の立場は?
では一揆はわざわざこの赤塚で起こしたのか、あるいはたまたま上杉親派が多く住んでいたのか?
パンフの記述はあまりに大雑把なので、きちんと赤塚の歴史を紐解いてみないといけないようです。

江戸期を通じて、石黒家は大庄屋として赤塚を治めていきますが、
大名行列の本陣としての役割を担っていたのが大地主の中原家。
中原邸は年に2回特別公開をしています。

中原邸玄関

玄関。
左に玄関の間があって、弓矢が多数置いてあります。
こういうときに、思わず刀掛けを探してしまうのがなんとも。(苦笑


投網の紋

中原家は先祖が漁業や水運業を営み、その結果財を成したことから、「投網の紋」を家紋としたとか。
網を紋にするって珍しい気がします。


人力車

明治~大正期に実際に使用されていた人力車です。
使い込まれた感じが歴史を感じさせますね。


上段の間

中原邸は、明治天皇の北陸巡幸の際、昼食を取るために寄られた場所でもあります。
ここは3つの間が続いていて、一番奥が上段の間で天皇が休息された部屋。
手前の部屋よりも一段高くなっています。
北陸巡幸が決まって急遽設えたのだとか。

本当は中原邸の特別公開を見に行ったのですが、100円でもらったパンフを読むうちに、
赤塚城と上杉遺民一揆が気になって、はやく図書館に行きたくてたまりませんでした。(苦笑
上杉家はなんとなく上越~中越ってイメージがありますが、
こんな近所にも縁があるとなると、ますます親しみを感じてしまいました。

神指城 

鶴ヶ城を堪能した翌日は、幻の城、神指城址を訪ねました。
越後から会津へ移封になった上杉家が、
その地を東日本の中心都市として発展させるべく計画した城です。
秀吉の中に、中心に大坂城、西に広島城、東に上杉の城という構想があったとの話も聞きました。
それを証明するかのように、幻の神指城は立地は大坂城を、建物は広島城をモデルとしているようです。

高瀬のケヤキ

神指城といえば高瀬のケヤキ。
築城前からすでに大木だったというその木を初めて見ました。
城の東北方向にあり、鬼門に当たることから、築城のときに伐採せず御神木にしたのではといいます。
その説に肯かずにはいられない威厳のある大樹でした。

高瀬のケヤキの下で

真下に立ってみると本当に大きい。
すべてを守ってくれそうな力強さを感じます。
人間の小ささを実感した瞬間でもあります。
この大木に見守られるはずだった城は、一体どんなものだったのでしょう。
あたりは一面畑ですが、発掘調査が進められているようで、
今後また新しい事実などが出てくるかもしれません。

神指城本丸跡

中央のこんもりした森が本丸跡です。
写真からは伝わらない広さがあります。
本丸は東山から運んできた石を積み上げた、総石垣だったそうです。
写真からは伝わらない広さがありますが、どれだけ美しい城が建ったのだろうかと、
しばし物思いにふけってしまいます。

如来堂

高瀬のケヤキと対角のところにあるのが如来堂。
二の丸の址に建っています。
ここは戊辰戦争のときに斉藤一以下新選組が戦ったとされる地ですが、
実際にどのあたりだったかははっきりしません。
ただ、すぐ裏を川が流れていることから、逃げるのは容易ではなかったように思います。
昭和40年くらいまで本丸の石垣がかなり残っていたようなので、
本丸に陣を張っていた説もあるのかもしれないと思いました。 >Akiさんへ私信(笑

〆は会津の郷土料理。
ランチをかの有名な渋川問屋さんでいただきました。
会津と新潟は近いので、食文化も似ているのかもしれません。
会津の「こづゆ」と新潟の「のっぺ(汁ではない)」はとても良く似てますし。
こづゆのほうが若干あっさりしているかな。

会津郷土料理

しかし今回の旅で、米沢で食べた米沢牛に勝るものはありませんでした。
ああ、最初にいいもの食べちゃうとあとに残りますね~。(苦笑
今年もまた、ヒストリカルな旅に出たいと思ってます。

鶴ヶ城!!! 

ものすっごい今さら感なんですけど……。
一応去年の米沢会津紀行の続きです。(苦笑

景勝公の米沢をあとにして、向かったのは会津の鶴ヶ城。
鶴ヶ城と打つと釣る牙城と変換する私のPCは切腹モノです!!!(怒

それはさておき。

いくら「天地人」を放映していても、会津はやっぱり白虎隊なんだなあというのが正直な感想。
地元のみなさんにとっては、はるか昔に2年くらいしかいなかった殿様よりも、
近い先祖との深いかかわりが感じられる白虎隊なのは当然だろうなあと思います。

会津若松城

このお城は本当に美しいです。
城マニアでもなんでもない自分が見ても美しいです。
曇って青空じゃなかったのがとても残念。
これが景勝公が入ったときのように黒い天守閣だったらな~とかつい妄想してしまいます。
いつ黒から白になったのか、旅行当日はすっかり混乱してましたが、
きちんと調べたら加藤嘉明が入ったときなんですね。
しかも地震が原因での建て替えだったとは!
というか、加藤さんがそんなに長く会津にいたとは思いませんでした。(1627~43年まで)

鶴ヶ城の天守閣から

天守閣からの眺めも最高です。
城と山の距離感が絶妙なんですよね。
景勝公一行が入ったときはきっと山並みがもっともっと雄大に見えたんじゃないかなとか、
ここでも妄想してしまいます。(笑

因みに七日町にあるレオ氏郷南蛮館では、この鶴ヶ城にあったとされる天守の間が再現されてます。

レオ氏郷南蛮館

床が赤なんです、赤!
これって漆塗りだったんでしょうか?
陽の光が入ると赤が天井の金に強烈に反射して、目がチカチカします……。

ついでに鶴ヶ城というか若松城といえば御三階櫓です。
もともと本丸にあったものが、明治期より七日町の阿弥陀寺に移されています。
見かけは三階、中は四階になっていて、一階から二階への階段は跳ね上げ式、
三階は人が立てないほど天井が低く、四階へは上ることが出来ないそうです。
床は歩くと音が出るようになっているとのことで、まさに密議所だったんだなあと思わせます。
中を覗いてみたくなりますね。

御三階櫓


この櫓の説明看板に、取り壊し直前の若松城の写真が載ってました。
戊辰の砲火でぼろぼろになった若松城を、私はここで初めて見ました。
ものすごくショックです。

七日町・阿弥陀寺で

普段戦国だの幕末だの乱世の歴史を興味深く見ていますが、
それって実際に自分が戦火を知らないからじゃないかとか考えてしまいます。
この写真が物語っているようなことが事実として起きているわけであり、
それを自分が面白く見たり読んだりするのは冒涜なんじゃないかとか……。
昔から、歴史に興味を持つとどうしても特定の個人の人生を覗くことになり、
それって何かを侵害しているような気がしないでもなかったのですよね。
それだけに、歴史と向き合うときは誠実に、真面目にあらなければならないと思います。
この写真を見て、その意識を新たにしました。

幕末古写真ジェネレーターで、ちょっと遊んでみました。
幕末の写真家になった気分で。
あるいは、松平家の下っ端の家臣が天守閣を見た気持ちで。(笑

鶴ヶ城の古写真?

最後に。
鶴ヶ城って、黒の天守閣の頃は金箔の瓦だったそうですが、
白くなってからは赤い瓦だったんですね。
再建された今はすべて普通の黒い瓦になっているのを、これから徐々に赤に戻すそうで。
そうするとこれまでとはまた違った表情になるのでしょうね。

巻神社 

今日は超ローカルな話題です。
ちょうど1ヶ月ほど前、用事があって巻町へ出かけました。

巻町

温かい陽射しのもと、紅葉も美しく気持ちの良い一日。

セイタカアワダチソウ

セイタカワダチソウが群生してます。
狭い地域なので車を止めて歩いて用を足していたのですが、
もう何度も来ているこの街で、見慣れぬ光景に出くわしました。

毘?

……毘? しかも紺地朱の丸まで?
街中、いたるところに2種の旗がはためいています。
なぜ、なぜここに謙信が~~~~!?

巻神社・外観

どうやら神社が原因のよう……。

巻神社鳥居

この神社はいつも通ってましたが、このような状態にあるのは初めて見ました。
神社を「毘」と「紺地朱の丸」が取り囲んでます……。
秋の大祭でもあるのでしょうか。
いずれにしても圧巻です!!!

巻神社

入ってみると、そこは巻神社(槙神社)でした。
縁起を読んでみると、天照皇大神と豊受大神が御祭神ですが、
享保と天保の2回の大火で記録が失われてしまい、創建時期等は不明だとか。
現在の社殿は安政2年に新築されたものだそうです。
天文年間に上杉謙信の崇敬を受けて祈願社となり(陣中旗などの寄進あり)、
江戸期には長岡藩牧野家代々当主の参詣があったとありました。

巻神社・境内

今は町の神社といった趣ですが、こんなところにも謙信の祈願社があったとは。
やはり越後なのだなあと、改めて上杉の地元を感じたプチ幸せな時間でした。

なぜここに……? 

上杉神社を出ると、あたりはすでに薄暗く。
ここからが我らの本領発揮! 楽しい夕食の時間です♪
入ったのはホテル近くの「米澤牛DININGべこや」さん。
コースごとにお部屋が分かれているようでして、今回は「しゃぶしゃぶ」を選びました。
他に焼肉、ステーキ、すきやきコースとありましたが、この日はちょっと肌寒かったんです。
ところがこの「しゃぶしゃぶ」選択が大誤算!
待てどくらせど席が空きません。
そもそもかなりの人が待っていたので人気店なんだろうなあとは思いましたが、
ここまで待たされるとは思ってませんでした。

ビーグル2パトラッシュ……疲れたよ……

しかししかし!
待った甲斐がありました。
いただいたお肉のとろけるように美味しいことといったら!
臭みも全くないし、お肉かどうか確認する前に口の中で溶けてしまいます。
実は私、牛肉は普段全く食べません。
だから米沢でも、正直何を食べれば?みたいなところがあったんです。
その私が言うんです! 本当に旨い、旨かったー!
お店が行列の理由も、待たされても並ぶ理由もこれで納得。
あ、写真……。
食べるのに夢中で撮ってません。(汗

美味しい牛肉と旨い日本酒を堪能し、翌日は高国寺からスタート。
なんとここ、新選組局長近藤勇のお墓があるっていうんですよ。
近藤さんのお墓があちこちにあることは知っていましたが、
こんな縁もゆかりもない米沢になぜ!?

高国寺

行くなり、「誠」の幟がずらりと並んでました。
恐るべし鍛治町! 町内ほとんど「近藤勇」の幟で埋め尽くされてます。
早朝にもかかわらずお寺の奥様から説明をいただくことができました。
きちんとパンフもできてましたから、訪問する人も多いのでしょうね。
いわく、近藤勇の縁戚にあたる近藤金太郎なる人が、万延元年(1860年)、
織物技術者を雇い入れよという上杉藩の命により、武蔵国から米沢に移ったのが始まり。
金太郎が商用で江戸に出ていた折、近藤勇が板橋で処刑されてさらし首になっているのを知り、
首を盗んで河原で荼毘に付し、ひそかに米沢まで持ち帰った
ということでした。
近藤さんの首は京の三条河原にあったはずですから、
それだけでもかなりこの言い伝えは疑わしいと思うのですけど、
それならなぜ、いつどこでどうなってこういう言い伝えが残されたのか、興味あるところです。
この辺の突っ込み、Akiさんに任せた!(丸投げ

高国寺を後にして、同じ通りにある岩倉まんぢゅうへGo!
朝の9時からもうおやつです。(爆
ここ、前から絶対来たいと思ってたんですよ。
糀の入ったほんのり甘い、ふかふかほわほわのおまんじゅう。
蒸かしたてをいただいて、歩きながらあっという間に2こペロリ。(笑
この時間からすでにお客様がチラホラいらしてました。
米沢では有名なお店のようで、さすが売り切れ御免のお店です。
そしてここでも、食べるのに夢中で写真撮ってないし!!!

おまんじゅうを頬張りながら我らが向かった先は、なんと市立米沢図書館
まさか旅先でも図書館へ行こうとは……!
地元の図書館には、そこにしかない資料があるもんですよね。
地元の人がまとめたお宝資料とか、地元でしか蔵書してない書籍とか。
そういう掘り出し物を期待して、わざわざ図書館へ行く時間を作りました。
とーこーろーがー!
何なんだよ、収穫なしだよ~~~。
それもさ、蔵書データベースに載ってるのに、書庫から出してもらおうと思ったら、
「絶版みたいです……」だって。
図書館で絶版てどういうこと~?
悔し紛れに郷土資料をちょこっとコピーしてとぼとぼ(?)帰ってきました。

米沢駅でかげっちさまに見送られて、いよいよ会津へ移動です。
かげっちさまと愉快な仲間たち

金泥の美しさ 

続いてやって来たのは上杉神社
なんと驚いたことに、ハンパない行列ができてました。
神社でこんな行列、初詣と夏の大祓のときくらいしか見たことがありません。
これはもう仕方ないので脇から参拝。
写真を撮ろうにも、人が途切れないので全くタイミングがつかめません。

上杉神社

しかし、隣の稽照殿(上杉神社の宝物殿)に行ってみてさらに目が点に。
なんと外まで行列が伸びております……。
まあこの機会に「愛の兜」は見ておかなくっちゃねっていうのはわかるんですが、
それにしてもあの狭い室内ですから、当然見物もままならず。
去年とは一応展示物も入れ替えてありまして、謙信のものが減っていた気がします。
毛氈鞍覆とか馬上杯とかなかったような……。
でもいろいろ妄想に浸ってるどころじゃなかったので、ぐるっと一回りして退散。
この辺、去年見てるので割愛します。(笑

さて、行列の上杉神社とは別世界、松岬神社は静かに静かに佇んでいました。
景勝、鷹山、兼続といった方々が祀られている神社ですが、上杉神社への参道の脇にあるせいか、
どうもみなさんあまり気づかずに行ってしまわれる模様。
やはり目の前の「毘」と「龍」の旗に引き寄せられてしまうんでしょうかねえ。

松岬神社

おかげでようやく心を落ち着けて参拝することができました。
私は、個人的にここは景勝公の神社と認識しているのですが(爆)、
周りの騒ぎから隔離されたかのような静けさを保った境内に、
世の中の喧騒を一歩離れたところで眺めている景勝公を感じてしまいました。

そして今回の旅の大きな目的の1つである、上杉博物館で公開中の「洛中洛外図屏風」の原本を見に。
最近のレプリカは精巧でちょっとやそっとじゃ本物と見分けがつかないといいますが、
レプリカを見たときの印象と比べると、やはり発色が違うように思います。
これだけ年数を経ていても、見とれるほどに美しいです。
きっと当時は本当に金色(こんじき)に輝く鮮やかな屏風だったんでしょうね。
もちろん、2つを並べられてどちらが本物か判断できるとは言えませんが、
金泥の色、筆のタッチ、やっぱり違うと思うんですよね。
コピーされたものと、じかにそこに描き付けられたものでは、何かが違う。
それはそこに込められた「心」に因るのかもしれません。
上杉本の洛中洛外図屏風は、一応織田信長から謙信がもらったことになっていますが、
誰が何のために描かせたかは定かではありません。

京都・一五四七年―上杉本洛中洛外図の謎を解く (平凡社ライブラリー)京都・一五四七年―
上杉本洛中洛外図の謎を解く (平凡社ライブラリー)

(2003/10)
今谷 明

商品詳細を見る


謎解き洛中洛外図 (岩波新書)謎解き洛中洛外図 (岩波新書)
(2003/03/20)
黒田 日出男

商品詳細を見る


その謎に迫るべく上の2冊を図書館で借りたものの、
読むのに恐ろしく時間がかかってしまい、時間切れで返却したままになっています。
これを読むときは洛中洛外図のカラー絵が必携です。
ああ、博物館でミニレプリカでも買っとくんだった……。

本当はこの後伯爵邸でお茶をするつもりでいましたが、
法音寺で思わぬ足止めをくらったおかげで、気づいたときにはすでに閉館……。
上杉城址苑でうこぎ尽くしを頂きました。

うこぎ茶とうこぎアイス

まだまだ続きます……。

歴史の香り 

いまさら感が無きにしも非ずですが、先の連休に訪れた米沢レポでも。
ドラマも終盤、さすが連休ということで人が多かったです。
しかしあれだけの人間が駅に降り立ったというのに、バスはガラガラ、街中も人がいない。
みんなどこへ吸い込まれていったんでしょう。

今回は最初に上杉家廟所へ向かいました。
入ってビックリ、すごい人!
駅で降りた人はみんなここにいたのか!
静かな廟所で上杉家と向き合うつもりでいたのに、そんな雰囲気じゃありませんでした。
やっぱりドラマの効果は大きいなあ。

上杉家廟所

ここには初代謙信公から、12代斉定公までの御廟があります。
米沢ではだいたい謙信公を初代と表記してますが、
「なぜ謙信が初代なのだろう?」と、毎回違和感を感じます。
米沢藩は景勝公の代からなのになあ。
気持ちはわからないではないですが、藩祖ではあるけれど、
初代っていうのはやっぱり違うと思うんですけどねえ。
因みに景勝公の御廟に「メ○シャキ」が2本供えてあったのは笑えない事実……。(汗

続いて廟所前の法音寺へ移動しました。
ここは、山号が八海山とあるとおり、もともとは越後南魚沼の八海山の麓に建立され、
上杉家の移封に伴って米沢に移ってきたお寺です。
今は廟所を守ると同時に、一般の檀家も受け入れておられるとか。
ドラマにあわせて特別展示があるということで伺いました。
上杉歴代藩主の御位牌始め、謙信公の泥足毘沙門天像、景勝公の遺言状(ただしパネル)など、
室内に設けられた急ごしらえの展示場に貴重な品が惜しげもなくさらしてあるという感じで、
いかにも特別展示といった様子。
それだけに、ありがた味も深まります。
中でも注目は「御廟所古絵図」でした。
文化14年(1817年)に作成された絵図とのことなので、
第11代(12代)斉定公のときのものということになりましょうか。
御廟と、上杉家家臣が奉献した石灯篭の配置が細かく記されております。
歴史好きの人なら絶対に嗅ぎ分けるであろう独特の香りというか、
藩政の香りが匂いたつような史料でした。
ご先祖が上杉家と関わりある方などは、必見のものでしょうね。
実はここで、ガイドさんに捕まって思いがけず大幅な時間のロス……。
おかげで後のスケジュールに影響が出てしまいました!
スルーしときゃよかったんですが、トンチンカンな説明にどうしても納得できず。
ガイドとか、人に何かを説明するって難しいなあと思います。
自分がその方面に対して知りすぎていても弊害があるし、知らなすぎても困るし。
自分自身を省みる機会にもなりました。

次は、上杉神社です。

上杉神社

越後に戻ってきました 

米沢はかねたんで溢れていました。
会津はあかべぇで溢れていました。

でも私はこれ。

かげっちさま

かげっちさまはうこぎのお茶がお好きなようです

というわけで、超絶ディープな旅を堪能して(笑)、無事越後に帰還いたしました!